青の中を行くように


 島には、1日3回、連絡船が行き来する。

 本州への船ではなく、本島への船だ。本州への勤め人は、そこから本州行きの船に乗り換える。このあたりに群で存在する小島の若者は、ほとんどがこの本島にある高校で勉強している。

 本島に対して、その子供という意味だろうか、島の名は童島(わらべじま)。
 島の家の半分は漁師、半分は酪農をして生計を立てている。
 島内部の丘陵地に土地を持っている者が主として肉牛を飼い、海の近くの家は港から船を出している。

 牛は、島内で放し飼いされている。丘陵はなだらかで、大して危険な場所はないので、舗道にも、時には港の近くまでも、牛は気楽に歩いてくる。

 どの家も放し飼いにしているけれども、ちゃんと耳に印をつけて、どの家の牛か分かるようにしているのでトラブルはない。
 ごくたまに、歩いている牛の背に、その家で飼っているのだろう鶏が、乗って散歩の供をしていることがあり、ちょっと微笑ましい。




「和尚さん、さようなら」

 寺の前で、飯樽友哉(いいだる ともや)は、掃き掃除のために境内に出てきた作務衣姿の和尚にきちんと頭を下げた。

 そばで親に促されないとお辞儀などしない島の子供たちの中では、礼儀正しいといえよう。和尚と呼ばれた明覚寺(みょうかくじ)の住職は、その点には感心しているものの、どこか生真面目そうな、昏い光を宿した瞳、いつも何か不満を押し殺しているように固く結んだ唇には、密かに溜息をつく。それは島の他の子供の顔にはない、11歳の子供には不釣合いな憂鬱気な、翳りの色だった。それでも口に出しては、「はい、さようなら」とにこやかに答えただけだった。

 蝉の声がどこからか聞こえてくる。

「お父さんによろしくのう」
 はい、と小さく答えて、少年は鳥居のほうへ歩き出した。

 明覚寺は童島唯一の寺社で、島民全員の菩提寺である。歳は取っているが元気のよい住職が一人で切り盛りをしている。海辺の町ではなく、奥に入った小高い丘陵の上、肉牛の牧畜を生業とする人々が住む「北ノ郷」の近くにある。境内には本社以外には鳥居と手洗い場があるだけ、見晴らしがいいだけに一層閑散として見える、素朴な佇まいである。

 寺には人よりも牛のほうが来る事が多いくらいである。北ノ郷とこの寺は、放し飼いの牛がぶらぶら歩いてくるには最適な、緩やかな斜面で繋がっているし、境内には敷地を仕切る生垣もなかった。牛は何でもない顔で境内に入ってきて、のそのそ歩き回る。現に今も、手洗い場の水が管から漏れて横の苔を濡らしているのを、1頭の茶色い牛がぺちゃぺちゃ舐めるように飲んでいる。

 友哉は、気味悪そうに横目で見ながら、おずおずと、大きく遠回りしてそれを避けて行く。まるで蛇を見るかのように……それがいきなり振り返り、しゃーっと飛びかかってくるのではないかと恐れているかのように、怖がりながらそーっと通り過ぎるのだ。他の子供たち、島で生まれて島で育った子供たちは、放されている牛を怖がる事はない。気紛れにからかうような声をかけることもあるが、大概は路傍の石と同じぐらいにしか思わず、平気で横を駆け抜けていく。

 飯樽友哉は、元々は本州の街育ちの子だった。

 友哉の父・広吉(ひろきち)はこの島の漁師町のある家に生まれたが、若い頃に島を飛び出し、本州の大都市に職を求めて、そこで友哉の母と知り合った。結婚して友哉を儲け、しばらくは仕事も順調だったらしいが、やがて不況の波とともに収入も減じやがて失職、生活苦の中で都会育ちの妻ともそりが合わなくなり、離婚して友哉を連れて島に戻り、漁業を継いだのだった。現在、元の家に収まり、老母との3人暮らしである。

 友哉はこの島でたった一校の、全校でも生徒数が18人しかいない小学校に編入させられたが、現在は不登校に陥っていた。周囲に馴染めず、友達が一人も出来ず、他の子のようにこの島で楽しく遊べなかった。3人しかいない小学校教師の一人の若い女の先生が、家まで訪ねてきて優しく説得しても、祖母にしみじみとした言葉で諭されても、学校に足を向けようとはしなかった。漁業に没頭する父はさほどそのような事情を深刻に受け止めようとしていなかったので、この教師と祖母と、それから明覚寺の住職とで話し合い、学業だけは明覚寺で住職のもとで個人授業を受ける事とし、学校には本人に行く気が起こるのを待ってみようということになった。実は住職は教員免許を持っていて、若い頃は仏教系の学校を教えていたものだった。

 いわば明覚寺は、昨今風に言えば、友哉一人のためのフリースクールとなったようなものだった。取り決めが決まってから、友哉は特にさぼらず不平も言わず、住職のもとに通い、学校で他の子供たちがやっているのと同じ課業を黙々と学習した。学業に関しては、彼は理解力があり、明るさはなくとも住職に対して素直で従順な生徒だった。

 学校で周囲に馴染めなかったのは、教師や他の生徒に理解がなかったからではなかった。子供たちは、大人に「本州から来た坊んを仲間外れにせず、一緒に遊んでやるんだよ」と念入りに言い聞かせられているらしく、友哉に飾り気のない友好的な顔を向けた。
 だが、友哉の方が扉を閉ざしていた。

 両親の離婚に加えて、都会での生活からこの辺境の島での暮らし、という環境の激変を、否応なしに受け入れねばならなかった友哉の中に、凝り固まってほぐせない頑なな何かが巣食い、障壁を作ってしまっているのを、住職は見て取った。

 それは周りがあまりやいやい言っても簡単には取り除けない、難しい問題だった。何故なら友哉という子は、繊細でありながら密やかに我が強い、つまり傷つきやすく治り難い子だから。住職はそう見て取っていた。

 人間達の思惑など意に介しない牛は、喉も充分潤したとみえ、のっそりのっそりと歩き出していた。
 その気配に気付いた友哉の足が速くなり、逃げるように彼の姿は境内から掻き消えた。

 彼がここに通うようになってからもう2ヶ月。そろそろ学校は夏の長期休みに入ろうとしている。




 寺の敷地もある丘陵地の上からは、海を四方に見渡す事が出来た。
 自分の本当の居場所はこの海を越えた先にあり、ここは流刑の地であるような気が、未だに友哉はしていた。
 心がまだ、過去を夢見ていた。



 いきなり連れてこられたこの島が、友哉は大嫌いだった。

 ファーストフードももコンビニもなく、テレビの映りは悪い、都会と違って夜は周囲は真っ暗になる。そこだけ変に明るい漁港の方からは、漁船が立てる無愛想なモーター音と、野卑そうな男たちの野太い声がたびたび無遠慮に響いてくる。都会と違い、大人たちはいちいち子供の自分にも声をかけ、何やかにやと話しかけてくる。それが鬱陶しかった。友達と遊ぶにしろ一人でゲームをするにしろ、子供には子供の世界があり、大人はそれに干渉しなくてよかった。ここでは大人の領域と子供の領域が否応なしに密接していて、大きな建造物や住宅の密集がない分空間的には広いのに、精神的には息が詰まりそうに窮屈だった。

 よくある「田舎でのびのびと」という生活とは、友哉の中では程遠かった。前住んでいた所で愛読していた雑誌すら、3日遅れでしか届かない田舎。大人たちがめかしてなくて野暮ったくて洗練されてない田舎。同じ年頃の子供たちは、舗装されていない道を獣の仔のように駆けていく。何も楽しくなんかない。父は港に行って船に乗る。帰ってくると生臭い。いつもきちっと化粧をして、自分を置いてどこかへ出かけていった母は、もういない。

 友哉は自分の置かれている環境を嫌い、軽蔑し、そして惨めだった。

 惨めなのは、軽蔑してるこの環境に、自分が負けているかのように、たびたび感じるからだ。他の子は何も感じず、たまに出会っても面白そうに声をかけるか無視して走っていくかしてやり過ごしている、丘陵地の放し飼いの牛が、友哉は怖くて仕方なかった。通り過ぎざまに蹴られるとか噛み付かれるとかされやしないかと、始終ビクビクした。

 水泳は苦手だった。温暖な気候のため、ここの子供は早くは春先から、遅くは秋の終わり頃までも、平気で海に入って遊んでいる。得意な子は、すぐ近くに見える(が実際には数キロぐらい離れているだろう)小さな無人島まで泳いでいくという。友哉は、泳ぎは得手でも不得手でもなくそこそこ出来たが、海で泳ぐのは好きでなかった。無遠慮で無愛想な波の荒々しさには、そういうものだと我慢できても、微生物の命を含む暗い色を宿す潮水が、いつも何か不潔なもののように感じられてならなかった。友哉にとっての泳いでよい綺麗な水とは、カルキ臭い透明なプールの水だった。

 それらの苦手意識が、見下しているつもりのこの環境に自分が劣っているかのように思わせ、たまらなく惨めな気持ちにさせた。

 何もする事がなくて気が滅入る時は、友哉は西の丘陵地へと続く坂道を登っていった。牛の放牧を生業とする人々の住む「丘の郷」までは行かず、道が坂に沿ってカーブする途中地点の、海に面した崖の上で足を止め、そこをぶらぶらしていた。

 そこから海は、目の前に果てしなく広がっていた。

 海に入るのは好きじゃなかったが、海を眺めるのは不思議と嫌いではなかった。……というより、気が付くと引き込まれていた。波が寄せては返す、その単調な反復の風景に、何故いつの間にか目を奪われているのか、友哉にも分からなかった。繰り返される波に一つとして同じものはなく、その表情は日々刻々と変わるということに気付き、その一見単調な営みが悠久である事の感慨に至るのは、もっと彼が成長した後の話だ。

 また、ここにはほとんど人が来なかった。丘の郷の人が丘の下の町を行き来する時は、何やら他所に近道があるらしく、崖の上は遠回りになるのだ。それに、さすがに崖の近くには柵がしてあった。放牧された牛が近寄らないとは限らないからだろう。崖自体は、見たところ海面からせいぜい十メートル前後の高さで、断崖絶壁というほどの峻険さはなかったが、その突端に立って常に白泡立つ崖下を見下ろすと、誰でもやはり危険を感じるものだ。大人たちに常から言い聞かせられていて、子供たちも、この辺りで遊ぶことはまずなかった。
 同年代の子供たちは時々友哉を誘いに来たが、友哉自身はそれらを嫌い、避けていたので、柵を越えても足元の安定した安全な場所を選んでそこにいれば、この崖の上はよい避難所だった。




 漁師の集落と崖を繋ぐ坂道の途中に、ぽつんと建つ一軒家があった。

 真夏に向かってぎらぎらと照りを強くする太陽が、その家とその前を通る友哉の影を、くっきりと濃い黒にして落とす。
 いつもひっそりと静まり返っているので、誰も住んでいないのだろうと、友哉は勝手に考えていた。

 ところが、ある日の夕方、家へ戻ろうと坂道を下っていた友哉は偶然、ぺたぺたと裸足で走ってくる同年代の少女とすれ違った。

 少女は友哉を見ると、ちょっと驚いたような顔をしたが、戸惑ったように目を逸らして足を止めなかった。友哉は軽い驚きを覚えた。ここの子供たちは、黙ってすれ違うという事を知らない、がさつな大声で必ず何かしら声をかけてくる鬱陶しい子しかいないと思い込んでいたからだ。
 そういえば、以前よく自分を誘いに来ていた連中の中には入っていなかった、あまり見かけない子だった。

 通り過ぎざま、長い髪が生乾きなのを、友哉は見た。……潮の香りがした。

 数歩行き過ぎて、友哉はふと立ち止まり、何気なく振り返った。
 少女が、あのひっそりと佇む坂の途中の一軒家に入っていくのを見て、友哉はまた驚いた。


「ああ、樫山(かしやま)の一人娘か」
 漁から帰ってきた父に訊くと、酒を注いだコップを片手に父は、ぶっきらぼうにあけすけに答えた。
「あすこは旦那が亡くなって、志保子(しほこ)さんが女手一つで生ちゃんを育てとってよ。本島の民宿でほとんど住み込みみてぇな形で働いてっから、長い事家を空けるんだな。生(いく)ちゃんはしょっちゅう一人で海に入って遊んどる。びっくりするほど遠くまで泳いでくらしいぜ」

 だんだん回らなくなっていく呂律で語られる、同い年だというその少女像に、友哉は、すれ違った時の生乾きの髪を思い出した。

「おっとなしい、人前ではよう喋らんような内気な子だながぁ……泳ぎだけはえらい達者だっけ、まだ童島で海女漁やってた時なら、いい海女になったかもしれんがなぁ」
 昔は盛んだったという海女漁は、今はこの近辺ではすっかり廃れてしまっているという。




 それから、少女──樫山生と友哉は、坂道で何度かすれ違った。友哉は降りていき、生は登っていく。相当なはにかみやらしく、友哉と目が合っても、困ったように顔を逸らしてたったったと走り過ぎていくのだった。風が吹いたら飛んでしまいそうな、細い体をしていた。

 いつも髪は生乾きだった。しょっちゅう海に入っているという父の言葉は大袈裟ではなかったらしい。そんなに入って何をしているのだろう。ただ泳ぐだけ? 不思議に思いながら友哉は、いつしか、海を眺める時には波間に泳いでいる人間の姿を探すようになっていた。

 だがまだ、陸から泳ぐ彼女を見つけたことはない。海はあまりに茫洋として広大で、その波間にあの小さな子がぽつんと浮かんでいるのを思うと、あまりに頼りなげで、自分は何も関係ないのに、切なさに似た気持ちで胸が痛くなりそうだった。きっと、そんな彼女を実際に見たら、波間に見え隠れするその姿に対して感じるのと同じくらい、自分自身も世界に対してあまりにちっぽけな点のように感じるだろうと……漠然と感じていたのかもしれない。




 小学校が夏休みに入った、ある日の昼下がりの事だった。
 いつものように一人崖の上で佇んでいた友哉は、突然、草を踏んで誰かが近付いてくる気配に気付き、驚いた。何となく身を隠そうと、岩間の茂みを振り向いたが、暇がなかった。相手は一気に柵を跳び越してきたのだ。

 樫山生だった。

 軽い足取りで勢いよく走ってきた少女は、しかし、横で仰天している友哉の姿は眼中になかった。あまり前に出すぎたら海に落ちてしまう、と友哉が気をつけて出過ぎないようにしている突端まで、彼女は一目散に走っていく。それでは落ちてしまう、と友哉がひやりとする暇もなく、彼女はその勢いのまま突端を蹴った。
 そして、細い体は眼下の海にふうっと吸い込まれていった。

 友哉は無言だった。……驚きが大きすぎて声が出なかった。
 我に返り、突端まで恐る恐る近付いて覗き込んだが、生の姿はなかった。

 ……自殺?
 そんな風には見えなかったが、自分の意志で飛び込んだということはそれしか考えられない。もっとも、自殺する人間があんな軽いフットワークで飛び込むだろうか、というのは大いに疑問だったが……そういえば、ぴっちり肌にまとわりついたような紺色の服を着ていたように見えたが、もしかしたら…よくよく見ていたら、袖付きの水着に見えなくもなかったかもしれない。だが、泳ぐ人間だってこんなところから飛び込みはしないだろう。頭の中が疑問符だらけになって、友哉はパニックに陥った。……何も思いつかぬまま、どのくらいの間、そこに突っ立っていただろうか。

 とにかく、誰か大人に知らせたほうがいい。やっとの事でそう結論して、もつれそうな足で、半ば転がるように坂道を駆け下り、漁師町の方へ走っていこうとしたその時、ふと、そこから見える遠浅の浜のほうを見た友哉は、唖然として、いっぺんに体の力が抜けてしまった。

 遠浅の海岸には、ごつごつした岩場がある。その厳つい岩の一つの天辺に腰掛け、着ている物──やはり袖付きの水着、の感触に気を取られているような表情で自分の腕や腹を見ているのは、あの少女、樫山生だった。

 長い髪が、その背に、首筋に、ぺったりと張り付いている。

 呆気に取られてじっと見ていると、その視線を感じたのか、突然生はくるっと振り向き、大きな目で友哉を捉えた。

 目を逸らすタイミングが見つからないばかりに、二人はしばらく見詰め合ってしまった。
「……さっき、あそこから……飛び込まなかった?」

 ぎこちない沈黙を破らねばという変な焦りから、友哉は恐る恐る、坂の上の方を指差して訊いた。
 濡れた髪が張り付いた生の膨らみの薄い頬に、さっと朱がさした。
 何かに打たれたように、彼女は岩を跳ね下りると、砂を踏んでざっざっと友哉の方へ一直線に歩いてきた。その勢いに驚き、自分は何か彼女を怒らせたのだろうかと不安になるより早く、彼女は友哉の目の前に立っていた。

 映る像を奥底に吸い込んでしまいそうな大きな目が、真剣な表情を湛えていた。

「……言わないで」
「え……っ?」
「おとなの人に、言わないで」

 やけにのったりした調子で喋る彼女の話を、最後まで聞くとこういう事らしかった──彼女はあそこから海に飛び込むのが好きで、また安全に飛び込んで、崖をぐるっと回ってこの(海水浴をしようという場合大抵ここを使うという)浜まで泳いでくる事が造作もなく出来るのだが、大人たちは危険だからとそれを彼女に禁じているので、知られると叱られる、というのだった。

 好んであんな崖から飛び降りるなんて友哉には信じられなかったが、彼女は困ったような顔で、普段は大人の忠告を聞き入れてなるべく衝動を抑えているというような事を説明した。たまに、どうしても抑えきれなくなるとも。今日は、本島の民宿で働いた金で彼女の母が、しょっちゅう海に入る娘のために肩から二の腕の半ばまで覆う、保温性の高い、子供のものにしては高価な水着を買い贈ってくれたので、嬉しくて気が高揚して、それを着て海に飛び込まずにはいられなかったと言うのだ。

「……変なの」

 ついその言葉が、友哉の口をついてでてしまった。

 気持ちが高まると崖を飛んで海に落ちずにはいられないなんて、ちょっとした変人ではなかろうか。だが、自分と同じくらいの、しかも女の子に、あからさまにそんな事を言うべきではなかった。口にしてしまった直後にそれを悟り、さすがに申し訳ない気持ちで生をこわごわ見やったが、きょとんと目を見開いた生は、大して気にしてもいないようだった。

 どことは上手くいえないが他の子とは違う、友哉を気負わせない、不思議な雰囲気を持っている子だった。

「…なぁ」
「……何?」
「海って……そんなに楽しいの?」
「……“楽しい”……うん、多分」

 首をかしげ、頭の奥から言葉が転がり出てくるのを待ってそれを口にするみたいな、のんびりとした喋り方。

「何か……捕れたりするの? 魚とか」
 ごく単純な考えからそう訊いてみたが、例え泳いでいて魚を見つけたって、彼女には捕らえられっこないだろうと内心思った。

「魚……は、ないけど、ウニなら」
「ウニ!?」

 思わず大声を上げてしまった。──都会っ子らしく、友哉はウニが高価な食材に当たる事を承知していた。寿司屋に行っても、高いネタの一つに数えられるからだ。それがこんな辺境の、人気のない海の中で、たやすく取れる……。それをほとんど何の気なしに、大したことではないように言ってのけた生を、友哉は驚きの目で見ていた。

 きっと彼女には、ウニの真価が分かっていないのだ。どれだけ高級な食べ物か、田舎育ちの彼女には。友哉はやや腹立たしげに思った。

「ウニ……好き?」

 そんな友哉の気持ちも知らず、生は暢気に訊く。
 友哉は、苛立たしさを抱えたまま、彼女を見下すような気持ちで強くうなずいた。しかし、そんな彼の内面の葛藤も、今まで抱えてきた不満のはけ口として自分が見くびられている事も、彼女は知る由もないことだった。

「教えようか……?」
「え?」
「ウニ、採れる場所」

 友哉はまじまじと生を見た。

「この辺ならどこでも採れるんじゃぁ、ないの?」
「…採るだけなら。でも、島の近くのは食べれない。船から出る油で汚れてる」
「……へぇ、そうなんだ」
「あそこのなら」

 そう言って、生は青々とした海原を指差した。
 小さな島が、海の底の神様の欠伸の跡のように、ぽっかりと浮かんでいた。

「……」
 友哉は息を飲んだ。
 何も遮る事のない海面の上ではすぐ近くに見えるけど、やはり、ここからは数キロあるだろう。

「……本当は、勝手に行って取っちゃいけないんだけど」
 ぽつんと付け足した言葉に、友哉は怪訝そうに生を見た。

「何で? やっぱ遠くて危険だから?」
 生はかぶりを振る。
「あそこは、奥本さんの島だから」
「奥本さん?」

 一瞬きょとんとなったが、どうやらあのこじんまりとした島は個人所有の地所らしい…という事で何となく飲み込んだ。本州にいた時の友達で「うちのおじいちゃんは山持ってるんだ〜」と言っている子がいて、山って人が持ったりできるんだ、と驚いた事があったので、島が誰かのもの、と聞いても、そういう事もあるのかもしれないと納得できた。でも、

「奥本さんって誰?」
「知らない」

 大人たちがあそこを「奥本さんの島」と呼ぶので、子供たちも皆物心ついた頃からそのように覚えているのだけど、誰の事なのかは知らない。この島かもしくは本島のどっかの金持ちのの家、の事だろうと、勝手に皆解釈している。

「でも皆、あそこまでは泳いでいって貝やウニ取ったりしてる」
 生の何気なさそうな言い方に、友哉の表情が微かに強張る。
 生の言う「皆」とは、この島の同じ年代の子供たちの事だろう。その子達は皆、遊びの感覚であそこまで泳いでいけるという事だ。

「俺、あんな所まで泳げない」
 力なく呟いた友哉を、生はじっと見た。





「海で水泳の練習する」

 急にそう言った友哉に対して、祖母も父もきょとんとしていた。

「……他に、面白そうな事ないから」

 ぶっきらぼうにそう言ってごまかした。祖母はそれでもまぁ、家に閉じこもったり何の目的も持たずにその辺をふらふらするよりは「子供らしく健康的」だと思ったようで、奨励してくれた。

「あの岩場のある浜の辺りならいつも波もそんなに大きくないし、安全さね。あすこからねぇ、崖のある方角に向かってみっつくらい岩が並んで突き出てるところがあるんだけど、あの辺までがまぁ友ちゃんでも足が立つところだから。泳ぐなら、あそこより遠くへ行かないようにすれば、大丈夫さ」

 そう言って祖母は、父を見て、

「なぁ広吉、お前もようチビの頃はあの辺で遊んだっけがなぁ」
「ん? あぁ」

 父は、あまり関心がなさそうに、気のないような返事をした。この島に戻ってきてから、父はあまり自分の事に干渉しなくなったと友哉は思った。漁師の仕事が忙しくてあまり話す暇がないのかとも思ったが、何となく最近では、無口で干渉好きでないのが父の地なのではないかと、友哉は思うようになっていた。

 あまり自分の事を心配していないのだろうかと考えると寂しくもあったが、自分で自分を持て余し、それを人から察されたくないという現在の心持ちのせいだろうか、奇妙にその態度にほっとさせられる事もたまにあった。

「まぁ、自分を鍛えてみるのもいいだろさ。お前はちょっと、体力がなくてひよひよだからな」




 それから友哉は、一人で海泳ぎの自主特訓を始めた。
 練習場は、大人しく祖母の推奨に従って、生と初めて言葉を交わした、あの岩場のある遠浅の浜にした。
 しかし、陸から海へと居場所を移しはしたが、相変わらず人目を避けていて、誰かが他の子供が先に入っていると絶対に近寄らなかった。そうやって避け回っているうちに、どうやら午前中が都合がいいらしいと気付いてきた。子供たちは大半が「涼しいうちに宿題やりなさい!」と親に抑えられているらしく、やかましく騒ぎながらばちゃばちゃと水に飛び込むのは、昼飯を食べた後のようだった。

 他の子達に見られたくないのは、劣等感のせいだと、友哉は自覚していた。だが、泳げるようになったところで、それで他の子達と交わりたいというわけでもない。どうしていきなり向上心に目覚めたのか、実を言うと自分でもよく分からなかった。

 ただ、生の存在が関わっている事だけは、認めないわけにはいかなかった。

 泳げない、と告白した時、生は自分をバカにしたわけでも、泳げなきゃダメだと叱咤したわけでもなかった。
 逆に、そういう反応を見せられていたら、自分は彼女を憎み、意固地になって泳ぐまいとしただろうと思う。
 彼女は……残念そうな顔をしたように思った。一言もなかったけど。
 それで、泳げるようになりたいと思ったのだ。理屈は分からないが。

 この辺の子供たちが大人の言いつけをこっそり破って遊びにいって秘密でウニを取る、「奥本さんの島」に自分も自力で行けるくらいになれたら。

 だが、生まれては消えていく波は、まだ小さい一念発起の挑戦者にとって容赦がなかった。
 祖母が「境界線」として指定した、3つ並んだ岩までも、1日5回も往復すれば、もうばててしまう。波は確かに穏やかだが、意外と距離があるのだ。

 今日も、その岩までやっと辿りついて、ひいはあと苦しい息をついていた時だった。
 そこから更に外へ向かっていく海の面に、大きな魚のような影を見た。
 それが生だと、閃きのように、何故だか直感で分かった。




 泳いでいる生を、間近で見たのは初めてだった。

 水面の下をひそやかに進む、生の影はまるで人魚のそれだった。
 都会にいた頃、自分も含めて同じ年頃の子供達は皆、未熟な手足でバッタバッタと水面を叩いて、派手に飛沫を上げる割には大して進めない、そんな泳ぎ方ばかりだった。茫洋の彼方から寄せては返す大波に、対するにも乗るにも自分のペースなど守る事も出来ない。だが、生は違っていた。絶えず動く海の水と融けあうように、妨げず流されぬ自然な泳ぎ──「海の子」のそれに他ならなかった。

 自分のいる場所より更に足などつかないだろう場所にあった、波に洗われる厳つい岩に、その影はゆっくりと近づいていく。

 一休みするためだろう、まず低い岩に取り付き、それから一番高い岩に、細い手足で華奢な体を押し上げる。潮に濡れた細い影が、微かに息を弾ませながら、海面に静かにたゆたうのと同じ色の陽光を浴びる。
 随分小さい時に読んだ、人魚姫の絵本を思い出させた。

 生は友哉に気付かず、動きを止めぬ果てしない海に恐れの色も見せず、穏やかな目をしてその水平線に視線を投げかけていた。

 ──自分とはあまりに、海に対する思いが、心持ちが違う。本当に同い年の子だろうか?
 休息はほんのつかの間だった。生はすぐに、岩から腰を浮かせると、荒い波が通り過ぎる間に、ぽちゃんとまた海面に身を落とした。

 友哉は、身を乗り出してその行方を見定めようとした。……彼女は、更に外の海へと、悠々と水の下を滑っていく。

 次の瞬間、友哉は彼女を追うように、「境界」の岩の外へと身を投げ出した。
 あまりに、彼女が泳ぐさまはたやすく見えたから。
 彼女のように、彼女の後を追っていけば、彼女のように、水棲の生き物のように泳ぐ事が出来るような、そんな錯覚だった。

 青く暗い水の中に、道標のように、差し込む光。
 音もない、眠っているような世界を滑るように進んでいく、生の影。

 その姿には疲労も苦難も危険も感じられていないかに見えた。……そんなはずはないのに。
 小さな泡がぷつぷつと、稚い人魚姫の航路を残して水面に上がっていく。

 彼女にとっては容易い深い青の世界。しかし、その容易さを追っていく友哉の体は、水の重さに疲労を感じ始めていた。
 思うように前に進まない。焦ると息が苦しくなる。慌てて水面に上がり、大きく息をしようとすると波を被る。長く顔を出していられなくて、頻繁に慌てた息継ぎしか出来ないから、苦しさは消え残りだんだん積もっていく。腕が、足がだるくなり、動かなくなっていく。

 遠ざかり、消えていく、滑らかな魚に似た少女の影。
 青がだんだん暗い濃さを増し、友哉の全身に覆いかぶさってくる──




 気が付くと、見慣れた自分の部屋で、友哉は布団に寝かされていた。
 あの青い海の中の世界は、夢だったのだろうかと一瞬思ったが、脇から覗き込んでいた心配そうな祖母の顔を見て、そうではなかったのを悟った。

「まぁ、気ぃついたかね友ちゃん、まぁよかったぁ…」

 祖母は張っていた気が抜けたようによかったぁを連発し、やや常態に戻ると、だからあの3つ並んだ岩より向こうには行くなと言ったのにと小言を繰り返し始めた。どうやら、自分は溺れて気を失ってしまったらしいと気付き、誰がどうやって助けてくれたのかと祖母に尋ねた。

「樫山さん家の子が、岩場まであんたを連れて泳いできて、港に大人を呼びに来たんだよ。お父さんと芝村のおじさんで、やっとここまで運んできて…」

 という事は、生が途中で溺れた自分に気付いて、自分の体を捕まえて岩場まで泳いで戻ってきてくれたという事か。友哉は、命拾いしたという安堵よりも、生に面目のないところを見せたという羞恥の感情で胸が重くなった。

 夕方になり、芝村のおじさんが友哉の様子を見に来た。友哉は大人しく挨拶し、大丈夫だというところを見せておじさんの安堵の笑みを誘った。

「そういや、玄関にこんなんあったけど……」

 そう言いながら、おじさんは何か新聞紙を丸めたようなものを取り出した。それを開けると、出てきたのは棘だらけの物体が2つ……明らかに、ウニだった。祖母は「まぁウニ、何だろうねぇ」と首をかしげた。

 生の見舞いだ。友哉はそう確信した。




「お前、生ちゃんと泳いでたのか」

 夜中に帰ってきた父は、友哉の枕元まで見に来て、ぽつりとそんな問いを口にした。友哉はその時には、もうすっかり元気になって、布団から起き上がって本を読んでいたが、その問いにぎくっとして父を見た。

 父はすでに、1杯ぐらいは引っ掛けてきた様子だった。多分家でではなく、漁港でだろう、夜の漁が終わった後、港で漁師が集まり皆で一杯、は慣例らしい。父は都会にいた頃とは、顔構えが違ってきていると、友哉は気付いた。無骨で寡黙な感じになっているが、率直な雰囲気もまた強くなっている。

「……一緒に泳いでなんかいない。偶然だよ」

 そう呟くように言ってごまかした。

「港の連中が言ってるよ。お前があの子と一緒に泳いでて、無理しすぎて溺れたんじゃねぇかって」

 友哉は驚き、改めて父の顔を見つめた。

「あの子は尋常じゃなく泳ぐだろ。変わり者でよ。まるで陸よりも海のほうが、自分の世界みたいでな。他の子たちと騒ぎ遊ぶより、一人で泳いでいる方が好きらしいんだ。不思議に、そんなに海に入って信じられないほど泳いでいくのに、事故には全然遭わねぇ、幸いにも。他の子でも、海に入って潮に流されて危うく外海に出そうになったり、足がつって溺れかけたり、そんな事はたまにあるけど、一番そういう目に遭いそうなあの子には何もねぇ。まるで、海に好かれた子だよ、あれは」

 人魚のように、ということだろうか。友哉は思った。

「あの子と同じペースでは、誰も泳いでいけんよ。もしあの子に一緒にって誘われても」
「誘われてなんかない!」

 覚えず大声を上げた息子を、父は驚いたように目をぱちくりさせて見た。

「全然、別なんだよ! 別々で遊んでたんだって! あの子は、何も…悪い事、してない」

 強調するあまり肩を怒らせて、やや気が昂って上ずった声になりながら、父にきっぱり言い切った友哉を、父は珍しいものを見るようにまじまじと見た。……そして、今まで見たことのないその面構えに、にやりと笑った。




 翌日、友哉は朝から、生の姿を探して海岸の辺りを走り回った。前夜の父の言葉で、自分が溺れた事で生が、勘繰った周りの大人から責められているのではないか、そう心配になったからだった。

 だが、生の姿はおろか、他の子供たちの影も、港や海岸にはなかった。──今日は小学校の出校日だと、港で大人の話から知った。

 変に寂しい気持ちで、友哉は港の辺りをうろついた。

 昼を食べに一度家に戻った後、、もうさすがに学校もひけただろうと、タイミングを見計らって友哉は生の家に向かった。

 家はいつものように静まり返っていて、生は帰っていないようだった。呼び鈴を押して対しかめる勇気はなかったが。

 家の影でしばらく待っていたが……もともと人はあまり通らない道なので、人目を気にする事はほとんどなかったが、友哉にとっては悪い事に、牛はとことことよく通った。それでも少しの間は我慢して待っていたが、子牛を傍らに連れた母牛が、家の横、友哉が座り込んでいた低いブロック塀のすぐ脇に生えている草を食べ始めると、もう限界で、飛び出して逃げた。……未だに牛の習性などは知らないが、子供を連れた獣は近付いてくる人間に対して狂暴だ、という事を何かの本で読んで知っていたので、急に怖気づいたのだった。

 とぼとぼと歩いて、家に帰る途中、港を見下ろす道を通った時……ドキッとした。何人かの子供、それに大人に混じっているのに、生の姿だけがはっきりと友哉の意識に引っかかった。

 漁港ではなく、本島への連絡線が発着する埠頭だった。午後1番の連絡船を待って、乗船予定の人々がちらほらと集まっていた。その中に生がいた。同じ小学校の子供何人かと一緒にいて、生は穏やかに笑っていた。はしゃいだ女の子が生に何か喋り、それに言葉少なに生が何か返し、他の子がまた何か喋ってきゃっきゃと笑いあっている。周りの子ほど生ははしゃいだ感じはなかったが、それでも溶け込んでいて、明らかに「仲間」の一人という顔だった。

 他の子たちと遊ぶより一人で泳いでいる方を好む──父は生の事をそう言っていた。だが、自分と違って生は、ちゃんと学校にも行くし、友達と話もする。この島で育ち、この島の生活の中で育まれた体を持っている。友哉の胸が痛んだ。

 生が船に乗るのか、それとも船に乗る人たちの間にいるだけなのかは分からなかった。見送りの人が混じっている感じが大いにあったから。生の母は本島の民宿で働いているという事だから、もしかしたら会いに行くのかも知れない。周りにいる大人も何かしら子供たちに話しかけ、生を含めて子供たちは皆明るくそれに答えていた。

 生が大人たちに責められる心配はないようだ、と分かったものの、友哉は、置き去りにされたように無性に侘しく、寂しかった。




 水泳の自主練もやめ、友哉は暑苦しい日々を無為に過ごしていた。

 あの溺れた不名誉の日から4日後、寝そべって本を読んでいた友哉は、隣の父の部屋から、何か癇癪を起こして物を壁に投げつけたような、刺々しい物音がしたのを聞いた。それは一度きりだったが、友哉が気になって父の部屋を覗くと、父は酒を飲んでいた。コップを持つ手つきが荒れている。不機嫌な時の、話しかけても答えない時の飲み方だった。

 台所を覗くと、祖母がどこか晴れない顔で、落ちつかな気に立ちすさんでいた。
 その日の夕方、祖母から、父と別れた母が、遠く本州で、新しく結婚したという事を聞かされた。
 もう手紙などは送らないほうがいい、そう声をひそめて言った祖母の声を、友哉は虚ろな心持で聞いていた。




 断崖の上に上がると、波立つ海面が下に下りていく。

 この崖の上に来るのも、久しぶりだという気がした。眺めは変わらず、茫洋の海の不休の営みを映している。だが、ここに佇んだ友哉の心持ちは、今までにないほど重かった。自分自身を持て余していたのは前からだったが、今はそれに加えて、誰にも打ち明けようのない、途轍もないほどの孤独感で、息をするのも苦しいように感じていた。

 ここから、生は飛び降りた。彼女にとっては単なる「海への飛び込み」だったけど、てっきり自殺ではないかとあの時は焦ったっけ。
 しかし、もし自分が飛び降りたら……

 友哉は眼下の海面を見た。波が崖の面に当たって白泡を立てて渦いた。──我に返り、二歩後ずさった。

 いつもならそれきり、崖下など見えない安全な場所まで引き戻るところだった。だが、何故か今日は、誰かに靴を踏まれているかのように、友哉はそこで立ち止まった。

 怖い俯瞰の眺め。だが、飛び降りて必ずしも死ぬとは限らないのだ。生は、生きている。
 生は恐れていない。自分は恐れている。その差は大きいと感じている。でも、それはここから飛び降りる結果を隔てるだろうか。

 あの時、生が飛び降りた後初めて言葉を交わした岩場のある方を、友哉は無意識に見た。
 その時、思いがけない光景が目に入った。──牛が、海を泳いでいる。
 いや。友哉は目を凝らした。確か岩場の近くの、海面から1メートルぐらい高さはあるが柵などは何もない、海沿いの道の辺りだ。その岸の横で、頭を出しているのは、遠くなので小さく見えるが、間違いなく牛だった。

 牛はもう一頭いた。道の上。うろうろしながらもそこを動かないのは、明らかに一頭が海に入っているからのようだった。多分、誤って海に落ちたのだろう……そして、上がれないでいる。今まで、寛容なまでの放牧ぶりでありながらそういう事が起こった事がないのは不思議だが、今日は起きてしまった。牛の転落事件だ。

 肝心の、人間の影は、そこらに見当たらなかった。人の助けがなければ、あの牛は陸には上がれまい。もしかしたら、もう一頭までうろうろしているうちに落ちてしまうかもしれない……友哉ははっとした。あれは親子だ。もしかしたら、いつか樫山家の前で見かけたヤツかもしれない。

 どうしよう。助けなくては……いや、自分では何も出来ないから、助けられる大人を呼びに行かなくては。咄嗟に辺りを見回したが、人影はなかった。誰かが通りかかる様子もない。この崖から海岸線をぐるっと沿って例の岩場辺りまでは、子供が泳ぎにでも入っていない限りは人気がないのだ。港はもっとずっと向こうだし、そこまで行けば大人がいるけど遠すぎる。牛を飼っている人たちの集落は、港とは逆方向にここからは丘陵地を駆け上がっていかなければならないが、やはり遠い。全速力で走っていっても、あそこまで着くのは……

 ふと、以前の事が頭をよぎる。自分があの道を走っていった時、ここから飛び降りた生は、泳いでとっくにあの岩場についていた。

 ここから、飛び降りる……?
 いつもならそんな考え、即座に否定していただろう。だが、今日は何かが違っていた。捨て鉢な気分のような、もしくはその捨て鉢さのおかげで今までになく前向きになれているような気分もあった。

 心臓が、いつになく大きく打っていた。なのに変に冷静な気分で靴を、着ていたTシャツを脱いでいた。
 足が動いたら、心の流れに任せてそのまま飛び込もう。そういう気持ちになった途端、足が動いた。
 追い詰められた動物が、襲われる絶望の極限から攻撃に転じるように、恐怖は頂点で飛び掛っていきたいぐらいの、突進する気持ちに変わった。空中で体が何にも触れずに落下する、その感覚が心を高揚させた。あっという間に近付いてくる水面に対して、負けるもんかと牙をむきたいぐらいの攻撃的な気分に、何故かなっていた。

 水音とともに、友哉の体は海水に受け止められ、音も速度もあっという間に吸い取られて海面の下に潜った。

 浮かぼうと必死で水をかいたが、それが逆に体を沈めているような気がして、やめて腕を下ろし、体を一つの棒にして、足だけで水を下に蹴ると、だんだんスムーズに浮かび上がってきた。暗い色の下から、光を目指して上がっていく。

 海面から顔が出ると、友哉は必死で空気を吸い込んだ。波に負けたなら崖にぶつけられてしまう、と必死で手足を動かす。だが、波は思ったほどきつくはなかった。むしろ、ぶつかって跳ね返され、引いていく波に乗ったようだった。崖の下をある程度まで離れると、海流は島の外郭沿いに、緩やかに動いているようだった。これが、生の泳ぎの速さを助長していたのか。友哉は、その流れを全身で感じながら、懸命に泳ぎ始めた。




 あの3つの岩までの往復ですらひいひい言っていたのを、生についていって溺れかけたのも、一瞬自分は記憶喪失になって忘れたのだろうか。

 島の外郭を沿うように泳ぎながら、友哉は不思議に思っていた。気分が高揚すると、頭に許可を得ず体は思わぬことをするものだ。

 岩場に向かっていくと、外郭のすぐ傍は、だんだん浅くなっている事が分かった。しまいには友哉は、水をかくのに疲れきった腕に休みを与えて足をついて歩くことが出来た。こんなところで海に入らないから、全く知らなかった事だった。

 そして、友哉ははっとなった。──生がいた。いつものあの水着で、泳いでいた。
 生の横には、あの牛がいた。
 まだ子牛だった。子牛は、立ち泳ぎしている生の隣で、驚いた事に、まるで泳いでいるように見えた。
 生が子牛を導いているかのようだった。そうして、子牛を陸に押し上げられるような場所へと、少しずつ移動しているのだ。

 彼女達の方へ近付くために、友哉は最後の力を出して、浅い海の底を蹴り、泳ぐために水に潜った。
 暗い色の海の中、日が差し込むところだけ、色が明るく、青く見える。生がその細い脚をゆらゆらとしなやかに振りながら泳いでいる、その辺りは日差しを抱いて青く揺らめいていた。

 子牛も生も、まるで歩いているように見えた。実際、子牛は歩いていたのだろう。牛が魚のように泳ぎを知っているはずはない。いきなり水の中に落ちても、どうしたらいいか分からないはずだ。ただ、常にしているように……足もつかない水の中で、ただいつものように歩くしかなかっただろう。

 それでも、危ういけれど、もどかしいけれど、その体は水の中を進んだ。まるで、青の中を行くように。
 とうとう子牛は、あの浅い岩場に辿りつき、その岩の間の砂の上に押し上げられた。やっと水の中から解放されて、子牛は、少し疲れた様子だが、気を取り直したようにそこらを歩き回り、潮水を体からすべて振り落とそうというかのように身震いしていた。
 岩場に上がって振り向いた生が、友哉の姿を認めた。

「あ……っ」
 友哉も浅い海底に足をつけて立ち、驚いている生と向き合った。
 濡れた髪が、陽光を浴びて輝いていた。
 他の人々が近付いてくる声が聞こえてきた。多分、親牛も一緒だろう。




 海は、この小さな島と外のすべてを繋ぐ、青い底無しの道だった。
 幼い生は、海辺から、母の働く本島が見えないかと、何度も背伸びして目を凝らした。
 そして、少しでも近づけないかと、海に入り、波を越えて泳いだ。
 その時から、いつの間にか生は「海の娘」となっていた……




「ありがとう、あの時……ウニも」

 友哉は、少し照れながらそう言った。生は、はにかみながら微笑んだ。

 生の家の前で、二人は、夏の遅い入日を浴びながら立っていた。蝉の声が、どこからか聞こえてきた。
 牛の問題は、子牛が無事陸上に到着してから、即座に解決した。生や友哉と同じくらいの子供たちが、大人と、海沿いの道で立ち往生していた母牛を連れてすぐにやってきたのだ。ちょうど夏休みで、この島の祖父母の家に遊びに来ていた本州の子供たちで、道であった放し飼いの牛たちを珍しがってちょっかいを出したため、牛たちは驚き興奮して、普段は行かない海沿いの細い道を行き、子牛が落ちてしまったものらしい。

 駆けつけた子供たちは、生と友哉に、「牛を助けた島の水泳名人」みたいな尊敬の眼差しを送り、自分は何もしなかったのだと友哉は慌てて否定したが、生がそれを裏打ちする注釈を何も与えなかったので、二人して祭り上げられてしまった。

 牛の親子は飼い主のもとに無事送り届けられ、どちらも怪我や異常はなかったらしい。

「……飛び降りたんだね、あそこから」

 朝顔のような青紫色のワンピースに着替えた生は、自分は容易くやってのけるくせに、驚きと賞賛の眼差しを友哉に向ける。

「うん。……死なないもんだね」

 友哉がそう返すと、今度は二人で、素直に笑った。

「また……取ってこようか?」
 ウニ、と生が、ためらいがちに申し出ると、友哉は首を横に振った。

「今度は、自分で取りに行きたい。いつになるか、分からないけど」
「……うん」
「その時は……連れてってくれる?」
「……うん、いいよ」




「忘れ物はないかね」
 住職に言われて、友哉は、はい、と歯切れよく答えた。

 夏休みが明けたら、友哉は生たちの通う小学校に登校する事を決めた。それで、明覚寺で勉強を教わるために持ち込んでいたものを引き取りに来たのだった。寺が忙しいお盆の時期は遠慮するよう祖母に言われたので、実際来たのは夏休みも終わりに近い頃のある日だった。

 住職は、友哉の心機一転について、詳しくは尋ねなかったが、いかにも満足そうに、置いてあった本を片付ける友哉の様子を見守っていた。

「また、いつでも遊びにおいで」
「はい。ありがとうございました」

 玄関先に出て、きちんと頭を下げた友哉に、いつもと同じ作務衣姿の住職は笑って頷いた。
 住職はそのまま、戸を閉め、家の中に戻っていった。だが、頭を上げた友哉は、しばらくそのまま、視線を高い所に据えたまま、ぼんやりしてしまった。

 引き戸の上には、いかにも古い、黒ずんだ木の表札がかかっていた。
『明覚寺住職・奥本倫憲』




 ──この話をしたら、生はどんな顔をするだろう。そんな事を考えながら、荷物を抱え、友哉は境内を軽い足取りで駆けていった。




2004年2月 ぱたたさんからの頂き物です。

注)改行は、ぱたたさんのオリジナルと異なります。